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すすきのの歴史

“札チョン族”の岩村通俊判官が生みの親!?
開拓使・島義勇判官の転勤によって、一時中断されていた札幌本府建設が再開されたのは、明治3年に岩村通俊判官が赴任してからでした。
建設が再開されると、請負人・大工・職人・人夫らが一時に大量に札幌へ流れ込み、それらの人々を目当てに貸座敷や「飯盛」と呼ばれる遊女を置いた飲食店が営業をはじめだしたため取締が難しかったようです。
妻子を東京に残して来た「札チョン族」の岩村通俊判官は、開拓のために札幌にやってきた男子をこの地に引きとめておく方策として、明治4年、薄井龍之工事監事に命じて現在の南4、5条西3、4丁目の2町四方を区画して、貸座敷、旅人宿、飲食店をここに移しました。このために薄野は官許遊廓と呼ばれるようになりました。
薄の原野の遊廓だから『薄野』ってほんとうなの!?
「薄野遊廓」は、岩村判官により名づけられましたが、これはこの地を選んだ工事監事「薄井龍之」の姓にちなんだもの、というのが通説になっていますが、一説には当時この一帯が「茅野(すすきのの別称)」だったことから名づけられたという自然地名説もあり、本当のところは藪の中ならぬ、すすきの中、といったところでしょうか。
さて、料亭と切っても切れないものに芸者が挙げられますが、札幌の芸者第1号は、明治3年の秋に函館からやって来たと言われています。さらに翌年、東京からも芸者達が来札。歌や踊り、鳴物の芸者で衣裳も粋をつくした本格的なもので、大いに繁盛したそうです。
すすきのはその後も札幌の経済の発展とともに繁栄の途をたどりますが、大正9年には札幌市の人口増加と市街地の拡大により、遊廓は、豊平川の川向こうの白石へと移転、しかし、遊廓跡にはカフェ・バーなどの飲食店が立ち並び、昭和5年には、その数450軒にもなり、すすきののネオン発達の基礎を形づくりました。
薄野は(夜の赤レンガ)歴史は夜つくられる!?
官許遊廓薄野が設けられた同時期に、開拓使は東京から招いたそば屋の「東京庵」に料理店を兼業させ、これが札幌の割烹第1号とされています。
明治20年代になると薄野遊廓外にも大きな料亭が開業し、その中でも200畳敷きという当時の北海道最大の大広間を設けた「いく代」は、“夜の赤レンガ”の異名を持つに至りました。
かくして、時の宰相・伊藤博文をはじめ日本の政財界のトップが次々と来札し、夜を楽しむとともに、政商談が盛んに行われるようになりました。
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